勇気づければそれで済む話か?
「元気出して」「きっと大丈夫」「君ならできるよ」
そんな言葉を、どこかで言ったことがあるし、どこかで言われたこともありませんか?言葉自体は前向きで、やさしさに満ちていると思います。でも、その言葉を口にしたとき、あるいは受け取ったとき、ほんとうに心の奥に届いると思いますか?それとも、届かないまま、相手の心の中で宙ぶらりんになっていたりしませんか?
私たちは、人を励ますことに慣れているかもしれません。「がんばれ」「応援してるよ」「負けるな」……きっとどれも悪意のない、むしろ相手を思うがゆえの言葉だと思います。でも、いつのまにかそれが、相手の痛みやつらさを置き去りにしてしまっていることがあるのではないでしょうか。
「励まし」が心を閉ざすこともある
誰かがつらそうにしているとき、何か言ってあげたい、力になりたいという気持ちは自然なものです。でも、その焦りが「とりあえず何か声をかけなければ」というプレッシャーになっていないでしょうか。
落ち込んでいる人に対して、「がんばれ」はときにナイフのように突き刺さることがあります。「もう十分がんばってる」「これ以上どうすればいいのか分からない」——そういう状態の人にとっては、「がんばれ」は、追い打ちのように感じられてしまうかもしれないです。
励ましの言葉は、とても軽やかで便利です。そして、私たち自身も「何か言った」という安心感を得られます。でも、それで本当に相手が癒されたり、救われたりしているかは、別の話だと私は思います。
勇気づける前に、「今ここ」に寄り添う
本当に誰かを支えたいなら、「勇気づける」前にできることがあるのではないでしょうか。
まずは、相手の「今」に目を向けること。「何を言えばいいか」よりも、「どう在るか」を大切にすること。無理に気の利いたことを言おうとしなくていいと思います。たとえば、黙って隣に座っているだけでも、相手は救われることがあります。
「話してくれてありがとう」 「そんなふうに感じてたんだね」 「それはつらかったね」
そんな言葉は、相手の痛みを受け止める土台になるかもしれません。解決やアドバイスを急がず、まずはその人が感じていることを、そのまま一緒に感じようとする。共感や理解は、勇気づけよりももっと深い支えになる。
言葉よりも、気配が伝えるもの
人は、言葉以上に「空気」や「雰囲気」から多くのことを感じ取っています。どんな言葉をかけたかより、どんなまなざしで見ていたか、どんな姿勢で聞いていたか。そういった「言葉にならないもの」が、心に響くのだと思います。
たとえば、こんな経験はないでしょうか?
・なにも言われなかったけど、隣で一緒にいてくれて安心したよ
・「つらいよね」の一言が、どんな励ましの言葉よりも沁みたんだ
・ただうなずいてくれるだけで、「この人には話せる」と思えたよ
私たちはみんな、「何か言わなきゃ」と思ってしまいがちだけど、実は「ただそこにいてくれること」そのものが、最大の勇気づけになることがあるのです。
「勇気づけ」は目的ではなく、自然に生まれるもの
勇気づけるという行為は、それ自体を目的にすると、どこか空回りしてしまうことがあります。「この人を元気にさせたい」と思えば思うほど、言葉が浮いてしまったり、相手にとっては無理を強いられるように感じられてしまったりします。
でも、相手の気持ちに本気で向き合い、その場に静かに存在し続けることで、自然と出てくる言葉には、力があります。それは計算された「励まし」ではなく、その人の心にふれる「真実のひとこと」になるのではないでしょうか。
「それでいいと思うよ」
「無理しなくていい」
「一緒に考えていこう」
こうした言葉は、テクニックでも処方箋でもないのです。ただその人のために心を尽くした結果として、生まれてくるものだと思います。
私たちは、つい何かをしてあげなきゃと思ってしまう。とくに、相手が苦しんでいるときはなおさら。でも、ときには「何もしない」という勇気も、大きな支えになると思います。
勇気づければそれで済む話か?——その問いの答えは、きっと「NO」だろうと思います。けれど、だからといって、勇気づけがいらないわけじゃないです。ただ、それは順番とタイミングと、信頼の土台があってこそ、ほんとうの意味で力を持つものになるではないでしょうか。
その人の物語に寄り添いながら、焦らず、黙って、うなずいて、そして必要なときに、そっと言葉を届ける。そんな関わり方ができたとき、ようやく「勇気づけ」は、本当の意味を持ち始めるのだと思います。
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